ごめんなさいね おかあさん

15歳の重度脳性麻痺の山田康文君と言う少年が
養護学校の先生の協力で作った
短い生涯でのたった一遍の詩を紹介します。

ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう
ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら

ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

この詩が生まれた2ヵ月後に少年は亡くなりました。

私はこの詩を読んでいて、涙が出そうになりました。
人の心の痛みを感じることによって、
自分の心が深くなっていくような気がします。

光はその先にある

厳しいトレーニングなくしては、
勝利の栄冠は手中に出来ない
ドロドロとした現実を避けていては、理想は築けない
痛みや哀しみを知らなければ、真の喜びはわからない
批判や中傷を享受できなければ、信頼は築けない

今見えているものの先に光がある
逃げるな!
乗り越えて、人生の栄冠を手に入れろ!

美しく立つ

愛は「愛している」という感情に属しているのではなく、この人を愛する、愛し抜くという自分の「意志や決意」に属している。
二人が付き合ったり暮らしたりすれば、時にはイライラしたり、腹の立つこともあるであろう。
しかしその時こそが愛の意味を知り、愛の力を養う時である。

仕事をしていれば、時にはイライラしたり、「もうやっていられない!」と投げ出したくなることもあるであろう。
しかしその時こそが人間力を養う時なのである。
絶望したり、逃げ出したくなった時こそ愚痴を言わず、逃げ出さず、何も考えずに、頭を振り払って、ニッコリ笑って、美しく立ち上がるのである。
そうすると「いい人」になっていく。

あばたはあばた、えくぼはえくぼ

人を愛する時は、その人の素敵な所だけでなく
弱い所やダメな所も
総体として許容して愛している。
つまり、魅力的な人というのは弱点も素敵に感じられる人である。
又一方で、魅力的な人というのは相手の弱点も許容して愛せる人である。

相手の弱点を非難して
マイナス感情を撒き散らすと、
自分だけでなく相手も汚染させてしまう。
自分を良く見せようとすると「良く見せよう」としていることだけが相手に伝わる。
誤魔化さず「ありのまま」を受け入れて自分も相手も愛することである。

あばたはあばた、えくぼはえくぼ
全部含めてあなたが好き!

二流としては超一流

先日、巨人の川相選手が犠打で世界一という記録を作った。
犠牲バンドで世界一と言うのは、なんともお洒落なタイトルだと思った。
他のメジャーなタイトルのように、「俺が、俺が」という嫌味が無い。
狙って取ったタイトルではないだろう。
こつこつと自分の生き方を生き抜いてきて、転がり込んだタイトルなのだろう。

私はそれほど素晴らしい人間ではないが、
それほどダメな人間でもない。
私は弱い所やダメな所もあるが、
得意なことや良い所もあると思っている。
2、3番目の位置で自分らしい生き方を生き切ってみたいと思う。

史上最強の5番打者のように
二流としては超一流を目指したい。

全ては「ここ」にある

運命に導かれた出会いというものがある。
世界には何十億という人がいるが、
もしもっと強い絆を求めて世界に旅に出たとしても、「この人」以上に強い絆の持てる人に何人出会えるのだろうか?

今・ここの仕事や環境も運命に導かれたものである。もしユートピアを求めて世界に旅に出たとしても、「今・ここがユートピアなのだ!」と気づくまで、それは見つからないであろう。
青い鳥は「ここ」にいるのである。

どこかに何かが無数に沢山あるように見えても、全ては唯一「ここ」にしかない。

宇宙を構成している「永遠と無限」の実体と本質は「今・ここ」にある。
「今・ここ」は常に変化しているが、それを手に入れたものが、「永遠と無限」を手に入れる。

「君の為」より「君のおかげ」

人は誰かのために何かをしたいと思うのだが、
現実は多くの人に助けられ、支えられながら生きている。

「君をもっと幸せにしたい」という気持ちより
「君のおかげで僕はこんなに幸せだ」という気持ちのほうが自分もそして相手も幸せになる。

やさしさや愛情は誰にも気が付かれない所でするものが極上の味がする。
「君のために」ではなく「君のおかげ」だから自然にそうしたくなる。

ヴィーナスが埋まっている

「この岩にヴィーナスが埋まっている!」
ふと、道端の岩石をみてミケランジェロが叫んだと言う。

僕はこの言葉を人に例えるのが好きだ。
「君の中にヴィーナスが埋まっている!」
そう思って見ると、人にはどんな人でもヴィーナスが埋まっているように思える。
生きるとは自分の中のヴィーナスを彫り続けることではないだろうか?

自分の中にあるヴィーナスを一生をかけて彫り続けるミケランジェロは結局は自分しかいない。
僕には君の中のヴィーナスを彫ることは出来ないが、これだけは言える。

「僕には君の中にヴィーナスが見える!」

信じる

「信じる」ということは事実を信じるということではない。
あなたを信じるということである。
事実が本当か嘘かということはあまり重要ではない。
事実が本当でも嘘でも、
「信じれば」、二人の関係は良くなるし、
「疑えば」、二人の関係は悪くなる。

人は他人に裏切られるのではない。
自分の期待に裏切られるだけである。

「人の言動や行動」は信用できないが、
「人」は信用できる。

裸になる

情報はいい情報も悪い情報も出来るだけオープンな方がいいと思う。
自分自身も、弱い所やダメな所も出来るだけさらけ出して裸になって生きた方がいいと思う。
そうすると批判や誤解などが増えるかもしれないが、それでも出来るだけ裸になって、本当の自分で生きた方がいいと思う。
でも一辺に裸になろうとすると、風邪を引いてしまうかもしれない。
外の寒さに自分を慣らしながら、少しずつ裸になっていけばいい。
外の寒さが辛すぎたら、また少し着込めばいいじゃないか。

裸になった分、身も心も軽くなって、自由になれる。

哀愁

人間は「おろか」というより、「哀しい」生き物だと思う。
人生は「辛いこと」というより、「哀しいこと」が多いと思う。
でもこの「哀しみ」を理解するからこそ、人の心のやさしさや美しさを感じ、人生の感動や喜びを味わうことが出来るのである。
チャップリンの喜劇が秀逸なのは、底辺にペーソスがあるからである。
ユーモアの本質はペーソスである。
泣きながら笑うのである。

「哀愁」が人間を深くする。

大切なものがあればいい

人生に「沢山」はいらない。
大切にしているものがいくつかあればいい。
今大切にしているものを
もっともっと大切にしていきたい。

新しいものを掴もうとするとき、
今両手に持っている大切なものを離さないで!

君の心は君の言葉に従う

思っているだけじゃダメだ。
口に出して言わなくちゃ。
「君のことが好きだよ」と。

いい言葉というのは、例え簡単な言葉でも、
ずっとずっと、心にこだまする。

愛を語る言葉と、愛を示す行動が
愛する心を育む。